●高橋健二、幾多の苦境を救った男
朝、先週発表された三浦文丈の引退の新聞記事を改めて読んで、今日は何故か妙に胸騒ぎがしていた。
「文丈と同い年の彼に動きがあるならば、最終戦の前に発表する筈。それは今日か、明日になるだろう」と。
2006年11月28日 午後5時41分、太田雅之と共に高橋健二の引退が発表された。
高橋健二の試合への出場機会は今年大幅に減っていた。ボールに対する堅実、且つ繊細なプレイ。彼は個の主張が激しく浮き足立つことも多い中盤に絶妙な落ち着きを生み、チーム全体の「碇」として、幾多のゴールを演出し、モンテディオに欠かせない存在だった。しかし、今年は出場時間の短さとチームの不振が相まって彼の持ち味を見ることがなかなか出来なかった。
齢三十五を迎えても尚、チーム屈指のフィジカルを誇ることがスポーツ紙で幾度となく取り上げられる。引退は去年まではもう少し先かと思っていた。
中盤のタレントが豊富な中、チーム事情をも含め彼自身の主体的な判断だったのか、彼自身が体力の限界を彼は感じていたのか、それとも財政事情が厳しくなる折、クラブから何らかの勧告があったのか。我々一サポーターとしては知り得ぬ部分もあるが、彼が下した引退という選択を尊重しなくてはいけないのだと思う。
過去に必要以上にセンチメンタルな思いを抱いてはいけないが、10年以上前、私にNEC山形というサッカーチームの存在を身近に感じさせてくれたのは、選手リストに一際目立つNEC山形初めての山形出身プロ契約選手「高橋健二」の名前だった。
自分にとっては中央文化に依存した文化後進県からの脱却を仮託出来る存在が「高橋健二」その人だった。
時は2000年10月1日富士北麓公園陸上競技場でのヴァンフォーレ甲府戦に遡る。
極度の不振の年を象徴する試合。ディフェンスラインが落ち着かずに簡単にゴールを割られる山形。1-3で入ったロスタイム。敗色濃厚な中、自分も含め僅か20人の山形サポーターの目前でエドウィンからのボールを健二が押し込みゴールを決めた姿が今でも記憶に残っている。
半年以上ホームで勝ちの無かった甲府に負けた屈辱的な試合だったのに、何故今でもあのゴール思い出すのだろう。
この年はチームの旧JFL昇格以来初めてと言っても良い大不振の年、チームの未来や展望も見えず、選手もサポーターも苦しんでいた。そんな中でも健二はゴールを入れ続け、チームの数少ない希望の星となっていた。
時計は更に遡る。同じ年、7月22日の山形市陸での大宮戦。フロントへの抗議活動を我々が行ったこの試合でも、健二は輝いていた。 この試合、佐藤淳志に代わり、キャプテンマークを再び付けた健二。その直前に要望書の受理を拒絶したフロント。クラブとサポーターが一触即発寸前とも言える緊張感が漂う中、選手達は勝利を掴んだ。
喚起の渦となった市陸のバックスタンドに健二はキャプテンマークを力一杯に投げ込む。柄になく彼は興奮していた。健二は当時においてクラブ史上最大の危機の中、その日彼が出来る最大限の役割を見事果たしてくれた。健二とサポーターが心を一つにした瞬間だった。
富士北麓でのロスタイムゴール、市陸での試合後のアクション。この2つのシーンを今でも忘れられないのは、両方とも高橋健二をサッカー選手としての生き方を象徴する出来事だったからだと思う。
石崎氏がチームを捨てた時、彼はチームに残った。
クラブとサポーターが背を向け合った時、彼はプレイで我々に気持ちを伝えてくれた。
モンテディオが苦況の時、必ず健二が我々を救ってくれた。
選手、サポーターが挫けそうな時、いつもは物静かな健二は自ら前面に立ってくれた。
時の流れは残酷なまでに激しく、
何人たりともその場に永遠に留まり続けることは許されない。
健二が現役選手で居る間、彼の想いに我々は報いることが出来なかった。
この事実を我々は深く心に刻み続けるべきだと思う。
彼の残した希望を我々は引き継ぎ、1年でも早く、彼の夢への想いを現実のものにしなくてはならない。
